土(いぢ)りに飽きると玄関の横、日除けを張つたキャンピングチェアに腰を落ち着けしばし庭に見()れる。何かを沈思するわけでもないのに、おのづと植物が放つ緑の精気に絡め取られて濃やかに、手を伸ばせば届く正面にシャクナゲとムラサキシキブ、日除けの右紐はイヌツゲ、左はツバキに結はへて、去年このもさっとした緑の懐にモズが巣を作ったのには、そわそわときめいてしまつた。まさかこんな場所に、ちよつと静かになった折り、台を置いて覗いてみたらぱちくり、親鳥と目が合つた。まだ雛は孵つていない、よしよしそつと下りる。その向かひには連なるやうにツツジ、サツキがわんさと咲いて周りは白と赤の落ち花だらけになる。ツバキの横は花の季節を閉じる黄色いバラ、そしてミツマタにクサボケ。それらの前にアジサイ、けれど鳥の出入りには邪魔になるし、どうにも場所取りなのでバッサリ切つてしまふ。足元周りはミョウガが一杯。草刈りしてゐたらなんとイチゴではないか。こんな日陰に、でもちつちやいけどちやんとイチゴの味がした。イチゴ好きの清少納言だつてこれは見つけられない。アジサイを挟んで官能をそそる匂ひのキンモクセイ。この幹とツバキに紐を結び小屋板に黒い日除けシートを架けて椎茸栽培。手のひらぐらいのが採れるともうスパーでは買へない。椎茸のクヌギ丸太3本の前は石の配置からして小さな池があったのだらう。その突き出た石に沿つて大きな株のイワヤツデがタンチョウのやうに立つ。花巻のその辺の山野から採ってきたのだらう。小屋の中は農具、雪掻き道具、漬物樽などとても助かる。使つたことはないけれど小屋の奥には男子用のトイレまである。きつたない小屋の正面ガラス格子戸を覆ふやうにこの庭で一番背の高いコブシが屹立し、水墨の筆を争ふ梅がスイセンの間からすっくり。腰掛けた膝の前、ムラサキシキブからその梅の下まで、右側の畑との境を石で区切つてここが花壇。花やガーデニングにとんと興味のないものからすればまあ華やかな、ボタン、シャクヤク、ユリ、チューリップ、キキョウにスノーフレイクetc。でもスギナやドクダミ、タンポポそれにススキの侵略をうけて貴種は肩身が狭い。花壇の左側はグミと、よう分からん小さい実をつける木が枝を張る。なのでツツジとの間、ツバキから小屋の入り口に至る小径は木のトンネルになる。放つておくと地面はクローバーでいつぱいだ。でも刈つて干せばマルチの代わりになる。そのために種を蒔いたのかは分からない。
 ぐるつと目を転じて畑の右隅に柿の木、毎年2百個は干し柿を作る。60半ばを過ぎてこんな旨いものがあるのかと唸つた。玄関の軒下は大根やら椎茸、出入りする一人分の幅を除いて何かかんかいつもぶら下がっている。網籠からついつい干し芋をつまみ食ひしてまた唸る。う~ん、こんな美味しい事を知らなかった人生が間抜けに思へてならない。そして柿の木手前からサカキ、ユキヤナギ、ハナモモ、チェリーにサクラ、続けてヒバ、フヨウ、サンショが庭を囲み具合よく目隠し、根元をサクラソウ、スミレ、ヒガンバナ、それら草花を揺らす風が今、木々が映すこの緑陰は、違ふ世界に繋がつてゐるのだからと、囁きいざなふ音が私の目の先を裂いてゆく。まあアリスのうさぎ穴があるわけでもないのだけれど・・・ うさぎ穴? 花梨は左利き、さういふ事か。私は返しを左手ゴム手袋に入れアヤメ花壇石に乗せておく。
明くる朝、当たり前のやうにそれは消えてゐた。
返し

 感じやすい水(sensitive chaos)の気色さへ()に残し霊かげろふ (みづ)の女

 sensitive chaos はテオドール・シュベンク『カオスの自然学』からの借用。監は白川静『字統』によれば「水盤に臨んで自分の姿を映す形で、上より()ること、また水鑑(みづかがみ)の意」その水を掬へば双対のここでは同時に塗抹する事、漱石『草枕』の畫工なら琳瑯璆鏘(りんらうきうさう)として鳴ると形容したであらう、掬ふ気色の()は音色の気になって繪を彩なす。それで何に成るかなんて、まあ繪に聞いてくれ、としか言ひ様がない訳で。心眼に映るだけでは淋しかろう。それなら畫に訊いてみよう。(参の語りへ移る)

庭ごと引っ越したかったが、もちろんそんなことできるはずもなく、体よくこの家をを追い出されることになった。見つけた先は新潟県柏崎の里山、70歳、物語は肆の騙りへとつづく

JPCZ(なるかみ)響動(どよ)む氷雪 欺罔に生きる魂魄(たましひ)の 立ち筋を裂き

 17年前まで名古屋に住んでゐて、撮り鉄ではないけれど近鉄線のファンだつた。
海女の居る海や何百年と人を拒み続けてきた深い山々と清流、なんだか懐かしい草原、
それに神々の住みたもうあまたの社。その遺跡を訪ね歩いたらこの国の成り立ちがわかつてしまふやうな、
車窓を過ぎる景色を眺め、ふと気になつた駅で降りてそぞろ歩く楽しさ。
風を探して一駅またひと駅。

 これは曽爾高原からの花梨との帰り路。
一面に広がる薄の原、その連なりの山の端まで登つて、二人とも息を呑む。
人の思ひや問ひかけを燃える色彩に変へ、光が乱舞するあまりにも美しい夕焼けを目のあたりにして。
うたたつかの間の光子を失ひ宇宙のコバルトブルーがあたりを覆ふ。(そら)に落ちてしまいさうな、
私は危ふく近くの岩に自分を繋ぎ止める。
  そばに座つていい?
彼女の言葉で空の蒼が一瞬海の碧に変はつたのに、私は気づくことができない。
息遣ひとともに刻々と深まる青。肩が触れて彼女の横顔
  耳許を汐の()と誰が思ひきや

すすきヶ原の池まで降りると、山の稜線越しにぽつかりまん丸のお月様。
ここから麓のバス停までまだかなりの距離があり、こんなに暮れてもう誰もゐないといふのに、
なんだか心躍る月夜。

  足音の囁き気づき振りかへる 君、まぼろしに月虹ゑるる

山の夜道をかうして二人歩いてゐると月の光がどんなにありがたいことか。
闇の樹々の静寂はおそろしいほど。私たちの言葉が止むとふたつの影が、

  ねえ、なんだかぼくたちに代はつて足音が囁きあつてゐるみたい、今度はぼくたち
  が耳を澄ます番だよね。さう呟くと
  うわあ しゅんぺいさんて詩人よね、などと半ば冷やかしで戯ける彼女。
   いざよふ月影に耳を澄ませませう。
  ぼくは照れて、でも実は彼女の直な驚きやうがとてもぼくを嬉しい気持ちにさせる。さう
   たゆたふ月虹に手を重ねませう、さう翳に聞こえて
・・返し

  足音が囁く聲の影踏みて 月に暈取られ君、何()

老いて孤り、若い頃のことはみんな、月光の醸す幻に思へてくる
それぞれの駅に、何か忘れ物をしてきたみたいに

 巧みに、なんとかして綾なさうと物語るうち、たうたう気付いてしまふ。
古希を前に結婚の経験もない。子供も居なければメールも話す相手すらゐない、孤獨が皮質を溶かしてゆく脳の耳鳴りから逃れられない老人に、何故、かういふことになつてしまつたのか。本人の意に反してここに全部表されてしまつてゐる。わたしは思ひ出のあの鉄路を辿つて、30年前の曽爾高原のカリンを歌に詠んでささやかな物語に仕立てたかつただけ、なのに。
 生け垣の向かうを人が歩いて行くのが見えるので俺は孤獨ではない。バン!車のドアを閉める無神経な音、アイドリング放置に、なんで俺の孤獨を汚すのかと切れさうになるのは孤独脳の作りからなのか。
 ゑるるは私が勝手に作つたオノマトペ。
振り返ると、今もあの月夜の光景が心の中で影を成してゐる。それこそ月影か、あるいは、多分歳取つて彼女も幻のやうに、筆で描かれた影(ゑ)ではないけれど、それは時折人に音連れる月虹、さう、それこそが繪なのでは。さういふ思ひをもし音にしたら・・・なので発音はweruruでないといかんのです、とここは笑つておくことにする。続けよう。

 名古屋から花巻に移住したのが16年前。夜、雪が降るとほんとうにしんしんしんしんと聴こえてくるやうな、耳を澄ましてゐる自分も冷たく透明になつてゆく、そして緑が萌える頃の山の美しさに、感嘆の聲を挙げ、見てゐるだけで遙かな気持になるのはまあ都会育ちだからなのでせう。
周りはどんなんだらうと原付でポコポコ出かけて山間の農家の前、
畑の中爺ちやんと3歳ぐらいのちつちやい女の子、まだ世界を見てほんの少ししかたつてない、その目で見られると自分の影が薄くなつてゆくやうな。不思議さうに、といふかなんだか不安さうに、なんともいたいけな眼差しが私を追ふ、私はこの子のあどけなさに吸い込まれ・・・、素敵な風景、都会でこんなのないよなあ、しかし、まあなんて可愛いんだらうと、通り過ぎ、えつ、息ができないほど、魂が射貫かれたやうな切ない思ひになつてゐる。原付ではなく徒歩であつたならきつとそこで蹲つてしまつたらう。何を見たのだらう俺は。

 移住してきた時のこの事を思ひ出すたびに、子供を育てたこともなく老いて、いや大人になつて赤ん坊も、子供も私の両腕は抱いたことがない。なんだか父性愛みたいなものをいまさら刺激されてゐるからなのだらうかと考へて、今、ふと思ひ出した。
 昔の読書で定かではないのだけれど、ラフカディオハーンが山陰の海辺の寒村を旅してゐたときその子に出遭ふのです。
海の見える神社の一角だつたか、粗末な着物を身に纏つた少女は凝と不思議さうに見詰める。
明治の中頃、130年も前のこと、ハーンも女の子から目を離すことができない。
彼女は西洋人との合の子だった。きつとこの子は父親を知らない。異人を見るのも初めてだったのでせう。
この国でどのやうにして生を受け、どんな風にこの土地で育つてきて、これからどうなつてゆくのか、ハーンはこの子の幸せを祈らずにはゐられない。
去り難いそのシーンが哀切で憶えてゐた。
事情は違ふけれど私が見たその光景も、なんだかここから解けさうな気がしてきた。
いつものやうに庭に降りて芙蓉の垣根を見る。

 蜻蛉(とんぼ)の翅を背に着けて
 けざやかな月華の夜
 芙蓉の花を食べに来る子ども
 飛べない雨の日には
 水溜まりの花びらを()つめて
 月読(つくよみ)の物語を奏でる

 この広いぼろ家に移り住む半年前から、もう5年は放置されたままだといふ庭・畑の再生に毎日のやうに通ふことになつた。鍬を使つて土を耕すなど65歳になつて初めてのこと、スコップで一列ごとざつくり掘り起こしスギナなど雑草を根つこごと、とにかく無心に取り除いては油粕を混ぜてゆく。夏も間近、どつぷり汗をかいて庭を見渡し・・・かういふ幸せがあるのかあ、しかも握つた鍬を振り下ろせば自分にも手繰り寄せられそうな、でも殊更人生を振り返つてといふわけでもないが、ただ、今まで親密にやつてきたこの自分の在りやうがどうにも虚しう思へて来て、溜息が、いや冷や汗が滴り落ちる。生垣といふ範疇を無視した、廻りを雑然と密集した緑の枝木で囲まれ、融雪の切れ間から現れる蕗の薹から始まつて、降りしきる雪に耐へる可憐な薔薇まで次々と咲き乱れる花々、まるで季節の移ろひとともに庭のあちこちから知らぬ間に現れほころびる花たちこそが、風を呼び緑を纏つての季節そのものを動かしてゐるやうな、なんだらうこれは。4年間ここに住んでやつとその凄さに気付き、植物の営みに沿つて自分の有り樣も変へてゆかずには、もはや暮らしてゆけないと感じてゐる。
 初めてスコップを入れて、周りの木々、目にするこれら花たちの名が出てこないことに気付いてまるで”無色”に触れてゐるやうな溜息が漏れる。花を付けるまであれが梅の木だとは・・。しゅんぺいさん、なんて寂しい繪を画くんですか。さう呟いた花梨の言葉は、いま庭を眺めて消沈する30年後の私を見透かす讖言(しんげん)のやうに思へて来て滅入るが、とにかく図書館に行つて植物図鑑、庭木のガイドブック、季節の花々図鑑、分厚い3冊を借りてきて、ひとつひとつ調べてゆく。よう分からん雑草など、それに畑で作る野菜を含めたら、それほど広くもないこの庭の植物は百種を超えるのではないのか。驚きだ。7年前に他界したといふ先の家主、庭を造つたその人に感謝を込めて「月虹の蛹になつて眠り入る 雪凍え薔薇さへ萌ゆる夢」を下手な字で申し訳ないけれどしたためて、お神籤のやうに薔薇の枝に縛つておいた。届くかな。そしてこの庭の最初の訪問者は薔薇の花を鼻の先に咥えてゐても可笑しくはない、だつた。

 畑らしくなつたじやない、これ、肥料にでもしてよ。そんな挨拶代はりの一品なのかも知れぬ。天地返しをしてふかふかになつた畝の端、うんこがしてあつた。
 早朝ゴミ出しに行くと脇の公園からさつと飛び出して来て空き家の庭にぴよんと跳ぶ。その跳躍の実に優雅なこと。かわたれ時散歩から帰つてくると家の前で何か咥へてスタスタ立ち去る姿が目に入る。もさつとしてはゐるが思つてゐたより細身で小柄、食べるものがないのか、でもその尻尾はさすがにクール。そう何か虫でも居たのか、畝の横に穴をもそもそ掘つたことはあつても、種を播いた土、苗を植ゑたところは荒らしたことがない。猫とは違ふ、意外で感心した、仮にも礼節を重んじるスノッブな奴なのではないのかと。
 3度目の春が過ぎ、さつまいもがどうにも場所取りで庭の角、小振りのツツジ二本取り除いて少しばかり畑を広げた。根を取るのに苦労したがざつくり掘つて柔らかくして春菊の苗を植ゑた。明くる朝、何をとち狂つたのか、バケツがすつぽり入るほどの穴が掘られてゐた。食い物でもあると勘違いしたのか。だいたいなんでこんな大きな穴を掘らにやらんのだ。狂つたやうに掘つてある。訳が分からん。このスノッブには妙に変質的なところがある。作業で使うゴム手がしばしば無くなる、それも左手ばかり。発酵させた糠の匂ひ香にそそられたのか、ガムのやうに噛むとか、まさかね。巣穴の補強とか。まあこの穴掘りといひどこか狂気じみてゐる。そして気付いた。庭の気色がいつもと違ふ。何あれ、薔薇の木の枝にお神籤のやうに結んである紙片、酔狂な、(まじな)かだれかの悪戯、ひよつとしてこれはなにか便りではないのか。いったい・・ま、同じスノッブ、とにかく文を解いてみた。

 月が傾ぎ素肌(むね)を影が見放(みさ)く 逃れようもない弧悲(けもの)の哀しみ

 花梨からだとすぐ分かつた。30年前二人して吉野を逍遙したとき、彼女のことを何首か歌に詠んで送つたことがある。美しい眉をもどかしくも緊張させ、私のことは詠まないで、手紙の返事にはこれとおぼしき歌が添へてあつた。二十歳の女の子が使ふ表現とは思へなくてちよと衝撃を覚え、もつとも記憶してゐたのは「逃れようもないけものの哀しみ」といふ下の句だけ。もちろん旧かなではないし、弧悲などのルビはなかつた。16年前花巻に遁れて来た時、彼女からの手紙を含め写真もアルバムも今までの自分を思い出させる物は全て、燃やしてしまつた。それから6年後、還暦を前に人並みに人生を振り返らう、いや作り直してみようかと『月の戸を開けて』を書いた。そこで花梨がこの歌を詠む。一応リンクを張つておく。そんな昔のこと、上の句はまあ思ひ出せるはずもないので自分で拵へて宛てがつた。あの時燃やしてゐなければ資料として使へたのに。特に自分と深く関はつた人達の手紙を読めたらもう少し情緒豊かに語れたのではと後悔したものだ。そろそろ孤独脳のテロメアが切れる、今一度記憶を繙いて書き直してみる。

 わたしたちを包んでゐた曽爾高原のたそがれ、翡翠が溶けて耀ふあの時、わたしの横に座つたのは、海の見える山陰の寒村でハーンをじつと凝視(みつ)めてゐるあの女の子、わたしは手を重ねることも肩を抱き寄せることにも気づけない。見えないし、当時のわたしにはそういふ戸口があることを意識できる素地すらない。わたしたちの性愛(セックス)は、いや、わたしの性欲は、このらうたげな女の子を(レイプ)すること。哀しみで瞳孔が震へ喘ぎ私の腕を打ち払ひ、水溜まりに踏みつけた面を窺き込んで、彼女は悲鳴をあげる。映つてゐたのは、蜻蛉の翅を背に付けた子供の死骸(かげ)。それがいざよふ月に暈取られ、偶にしか生理が来ない彼女が見てゐる夢。今度はぼくたちが耳を澄ます番だよね、囁く聲の影を見放き「弧悲」を選ぶならそれは男の勝手。もしもそれが「乞ひ」であるなら、それは女の欺罔(きばう)。もつとも、水に映れば双対、それらは入れ替わるのだが、水鏡のむかふとこちら、月読の物語を奏でる子供と、らうたげなラフカディオの少女は、出逢ふことは叶はぬ。その水を掬ふを繪畫くといふ・・・月へひとりの戸は開けて

第1部往相篇 弐の騙り

 花吹雪を作つてゐる夢を見た。映画『雨月物語』のやうな世界で見知らぬ人が幾人か、背負つた袋の中から紙を取り出し、細かく千切つては風に眩はせてゐた。紙は掌を離れた途端活きた花になり、おそらく彼らは棄民で袋の中の紙が尽きてしまへば、取り返しのつかぬ殃禍に見舞はれるのではと怖れてゐる風だつた。
 ここつて、あのとき薪能が催された場所よね。彼女の声に向かつて、私は河原で無雑作に紙をちぎつて風に舞はせてゐる。その光景が筆の先で綾なし、華を作つてゆくゑがく行爲と映像が重なつてゐる。夢の中では完全に同じ繪なのだ。そこで目覺めた私はなんだらう、屹度これは美を作す何か秘密を隱してゐるに違ひない、と彼此考え倦ねてゐる裡にまた眠つてしまつた。次目醒めると気付いた。なぜ彼らが追放されるに至つたのか、それこそが実は繪畫くことの暗喩になつてゐた、私は彼らの表情を読み取ることであの声を聽いたのだ。千切られた紙屑さへ綾誂ふ世界の、なのに辺りは白黒の靄に呑まれて、何が起きてゐるのか望めない。うつすらと影が動いてゐるやうな、でもただのフィルムノイズなのか区別も覺束無い。だが、それは図と地の関係を解く秘鑰(ひやく)だつた。舞ふ花びらの色音を見れば解る。薪がカタッと音を立てて火花が散り、それに合せるやうに薄明の中ぱつと投げ広がる白い蜘蛛の糸。私は河原に立つて彩なす美術を目の当たりにして・・・、でもそれも夢の中での続きだつたのか、花梨がその次に何を言つたのかどうしても思ひ出せない 
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