蜻蛉の翅を背に着けて
 

 東北からの新幹線の車中だった。真ん中あたりの通路側の席に私は座っていた。北上駅で禁煙車両に乗り込んで、さっと見渡して真ん中まで足早に歩いてきても、あいにく座りたかった窓側の空席は既にどちら側にもなく、仕方なくそこに座ったのだ。せっかくだから外の風景をずっと眺めていたかったのだが・・・。時計を見ればもう昼近く、車内販売でサンドイッチとホットコーヒーを買ってぼそぼそとひとりで食べていると、郡山を過ぎた辺りだっただろうか、前の方の席がにわかに騒がしくなって、いったい何が起こっているのだろうかと訝しく思い、私は背筋をいっぱい伸ばして座席越しにのぞいてみた。すると、あらあら、まるで幼稚園の統制のとれない学芸会の舞台みたいに、幼い姉妹が座席に立って踊りながら夢中になって歌っていた。彼女たちの後ろの席にはちょうど年も同じくらいの双子の男の子がいて、きっと座席越しに4人で遊んでいるうちにそんなことになったのだろう。でも男の子たちの方は周りをそれなりに気にしている風で、隣のお母さんにそれとなく注意されたのかもしれない。大きな声を出すということもなく、彼女たちと楽しく遊んでいながらもはにかむようにおとなしかった。でも彼女たちはといえば、う〜ん、これがもう一向にお構いなしだった。そんな彼女たちの乱暴なまでの愛くるしさを見ていると、私は妙な、どこか懐かしいおかしみが湧いてきて、なんというかついひとり口元が緩んでしまうのだった。
 しかし、周りの人たちからすればかなり迷惑だったのだろう。事実、私の左隣ひとつ空席を置いた窓際の年配の女性は、ずっと文庫本を読んでいたのだが、その様子に一瞥もくれることなく、私にも聞こえるぐらいの声で「うるさいわねぇ」と吐き捨てるように呟いたのだ。そんな状況にもかかわらず、この子たちのお母さんは取り立て注意して諭すという雰囲気もなく、ひょっとしたら子育てに対してなにか特別なポリシーでも持っているのかもしれない。あるいはこのおおらかさは姉妹がとんでもなく愛くるしいうえに、はっとさせられるほどの器量良しだということが、母親の自信になっているからなのかもしれない。当然彼女たちはどこへ行ったって、まあなんて可愛いんだろうという大人たちの感動にも似た、嬉しそうな笑顔で迎えられることは想像に難くない。でも、まあよくは分からない。私は五十を過ぎて子供もないし細君もいない。だから私の見方はどこか偏ってしまうのは致し方ない、が、ふと思い出す。そういえばずっと昔だがそんな子がいたな。ちいさな男の子だ。
 
 私が女性と暮らし始めたまだとても若い頃、彼女の親友の子供がそんな風だった。やんちゃを言い出すと、もうどこででも寝っ転がってとても手がつけられなかった。所かまわずこれだけ派手にやると見事といえるほど、でも、お母さんは眉間にちょっと皺を寄せるぐらいでまるで取り合わない。彼女をかばうように、お祖母ちゃんがね、もう甘やかせるのよと一緒に暮らしていた女が耳元で云々。ちょうどこの頃が私の「子供体験」の初めての頃で、(一緒に暮らしていた彼女にも、事情があって自由に会えるわけではないのだが同じくらいの年頃の子供がいた。私にとっては胸が痛くなるほど可愛い女の子だった)そんな事態に接しながら、まだなんにも知らない若い私は、子供を育ててゆくって、こりゃすげえやって内心ちょっと打ちのめされて、このお母さんの家に行って・・・もう驚いたなんてものじゃない。開いた口がふさがらないというのはこういうことなのかと初めて知った。彼女は部屋を片付けるということをしないのだ。玄関を開けると畳が見えない、玄関に靴を置く場所すらない。その乱雑ぶりはほとんど震災にあった部屋のよう、目の前に広がる光景を目の当たりにして、私は一人背筋を冷たい汗が流れる思いだった。そして男の子はまるで生い茂る草むらに入ってゆく小動物のように、さっさと障害物をかき分けて部屋にあがってゆく。その後ろ姿を見て、私の世界観は変わってしまうんじゃないかと思った。世の中にはほんとうに変わった人がいるのだ。
 それからずっと後、この子にちょっとした集まりで会う機会があった。そこで私はまた驚かされたのだ。中学に上がりたてか小学校の高学年の頃だった。なんと、彼は礼儀正しくて物腰の優しいものすごくいい子になっていたのだ。長い睫毛が翳って眼差しがはにかむように揺れると、この子の感じやすい豊かな感受性がふっと思いやられて、接する者をはっとさせるような・・・確かに可愛かったけど、あのとんでもねえガキがいったい何があったらこんな風になるんだぁ?同一人物とはどうしても信じられなかった。結びつくわけがない。だから、まあそういうこともあってか、ところ構わす騒いだりする子供に関して、私はかなり寛大なのだ。それから、この子のお母さんのことを思わないではいられない。後にも先にもいない。神秘的なまでに美しい人だった。横に彼女が立つと目眩がするぐらいだった。  
 そんなことを少しずつ思い出しているとスーッと列車は止まり、ざわざわした駅のホームを先ほどの姉妹が、お母さんに手を引かれて歩いてゆく姿が車窓に映っていた。その様子はなんともいたいけなとても良い風景だった。彼女たちの後ろ姿を見つめながら突然私は突拍子もないことを思った。世の中は幸せでなくてはならない。それはがんぜないあの子供たちのように、所かまわず叫んでみたくなる衝動だった。そう、世の中は幸せでなくてはならない。だが新幹線の滑り出す機械音は、そう思うことは勝手だが成立事項としてはまったく無意味なものなのだと、あっさりと人の思いをかき消しまう。やがて、そういうものなのだとレールの高速に軋む音が呼応して言う。
          
私は溜め息をして、無数の家々が飛んで行く窓の外を見つめながら、今あの子たちの年齢に戻れたら、どんなことを思い私は何を望むのだろうと考えてみた。そう想って眺めてみると次々と飛び去って行く建物、それぞれの家族が住んでいる、でもここからは何ひとつ窺い知ることのできない一つひとつの家は、行き去ってしまうばかりで、なんだか子供の頃見た悲しい夢のような気がしてくる。私はもう一度嘆息をついて気を取り直し、もしも今、あの子供の頃に戻ったら、世界はどんな風に見えるのだろう・・・。そんなことを想像してみるのだった。
 
 
 もしも子供になったら・・・
          そう、まず告白しなくてはいけない。
 
 夜の円いの慎ましやかなざわめきが次第に遠ざかり、耐え難いほど目蓋が重くなってうとうととしてくると、いつもふと不安に駆られて体を強張らせるのだった。夢の世界の罠にはまり打ち克ちがたいその誘惑に、今夜こそ負けてしまうんじゃないかって。その思いは夜ごと、眠りに入る夢うつつの僕を緊張させたんだ。
 その時も明けやらぬ闇の中、濁流が渦巻く激しい洪水のただなかで目が覚めたの。少し前までは美しい森の中を歩いていたんだ。風がとても爽やかで、ちょつと休憩して、木陰で、恍惚として、目を閉じて鳥のさえずりに耳お傾けながら、あんなに気持ちが良かったのに・・・ ぼくはなかなかおねしょの直らない子で、叱られるのがもう嫌でたまらなくって、夜が刻々と白んでゆくなか、みんなが起き始める朝までかかって、掛け布団やお腹で温めて濡れたパンツを乾かしたの。それはもう涙が出るような作業だったんだ。
 夢の罠がもたらす悲惨な結果とは裏腹に、きらきら輝くとても気持ちの良い朝だった。
 物干しに惜しげもなく掛けられた、まるで宝のありかを示すような夢の地図を前にして、いつも抱き合うように一緒に寝ていたお姉ちゃんとぼくは、大審問官のようなおかあちゃんのきつい取り調べを受けるはめになったの。でもどちらのパンツも濡れていなくって、怪訝そうなお母ちゃんの顔を見て取るや、ぜーったいぼくじゃないもんってぼくは強硬に言い張って、結局お姉ちゃんの方に嫌疑がかかっていったの。
 お姉ちゃんは自分自身でも半信半疑のままべそをかきながら、不利な形勢にどうにかして抗おうと、私じゃないもんってその声が震えていたの。かわいそっ、だってあれ、ぼくだもん。
 ぼくはずるい子です。
 
 子どもになったら・・
 砂の船に乗って砂の大海原を越え、昼下がりにこの世のものとは思えぬ不思議な匂いのするお香に乗って、妙なる音楽の流れる見知らぬ異境の国や、神秘な遺跡の残る険しい山岳地帯や、未知なる植物が生い茂る奥深いジャングルを探検したの。数々の冒険に遭い、幾多の苦難を乗り越えて・・・。
 でも仲間の多くはひとり、また一人、いつの間にか行方不明になり、残った者も次々とその非業な死を死んでいったの。それがあんまり悲しくって、涙をポロポロこぼしてひとり砂の船のロープを解いた。
 青く海が騒めきたち、貿易風がその波をエメラルドに輝かせる頃出立する、生と死の間を旅したその物語の続きを語りたい。
 
  子どもになったら、一日だけ病気になるの。
 ガラスの瓶の目盛りがついていて、一日一日食後なんかに少しづつ飲むあの薬が飲みたかった。額の上に吊るされた氷の袋、陽だまりがガラス戸に揺れる静かな部屋、あんなふうに伏せてみたかった。それでお医者さんがいかにもっていう感じの、厳めしい古い鞄なんか持って眼鏡をかけた看護婦さんと一緒にやって来るの。胸をはだけたぼくはわくわくして、聴診器があてられるのを待っている。
 夜ぜいぜい喘ぐと、お姉ちゃんたちはべそをかきながら消え入りそうな声でぼくの名を呼ぶの。お母ちゃんはお粥を作っていて、みかんが食べたいって言うと、おとうちゃんは一晩中駆けずり回って季節外れの蜜柑を買ってくるの。んでお姉ちゃんたちは日頃の数々のいたらなさを懺悔して、大切な万華鏡なんかくれたりするの。だから一日だけ死の淵を覗き見る、病気になるの。
 
    子どもになったら・・・
 ひもすがら、しとしとと降り注ぐ憂鬱な雨の日。がらんとした部屋の中で、そぼそぼと響く雨音に促されて、窓辺で頬杖をつきながら眠るようにいつも思い浮かべた、「ぼくの家」を描いてみるの。
・・・なぜか冬なのです。固く凍りついた大地の上を、昨夜降り積もった雪が地吹雪となって吹き抜けてゆく小高い丘の上、ぽつんと灯りの点った家があります。周りは雪ばかりです。洩れる明かりが帯になって積もった雪を輝かせています。家の前にはやはりぽつんと一本、寂しそうに樹木が立っています。燈りに照らされた窓には人影が動いて、夜空を見つめています。満天の星降る夜空には神話の主人公のように、赤い耳をしたシベリアオオカミが銀河を越えて、星座の間を翔けてゆきます。こんなんです。
 
 ここに貼る絵をなくしてしまったので省略。また今度・・・
 
 ぼくの家です。
 
       子どもになったら、手紙を書きたい。
 原っぱが好きだった。腰を降ろせばその気配さえ草のざわめきのなかに消えてゆく、身の丈の高い原っぱが好きだった。ひんやり湿った土の感触やさやかな草いきれにつつまれ、目を閉じれば、懐かしい僕の夢想の主人公達は、それぞれにブリキのおもちゃほどにもたわいのない、ちいさな想いを携え、かさかさと心地よい音をたてながら、茎の間からひとり、また一人り現われ、耳を澄ませば、草や木々のざわめきは、失われた太古の言霊のよう。 木洩れ日がつくる、木の葉の斑の影はいつしか文字になり、風に揺れれば、ささやかな物語を伝える。その手紙はいつ、誰の胸に届くのだろう。


   蜻蛉(とんぼ)の翅を背に着けて
   さやけき月の夜に
   桜の花を喰べに来る子ども
   雨の日には水溜まりの花びらを集めて
   月夜見(つくよみ)の物語を奏でる
                 さくら子へ 
               もしも、僕が子供になったら・・・
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