昼の(そら) F100号 1620×1303㎜      

 表題の「空に出でれば」は西行の
 空に出でて何処ともなく尋ぬれば 雲とは花の見ゆるなりけり
から拝借した。趣意は、白州正子『西行』によれば、あてどもなく彷徨い出るということ。そういえばこの本はたしか
 そらになる心は春の霞にて 世にあらじとも思い立つかな
で始まっていた。ずいぶん前に読んで、もう、内容もとんと思い出せない。手元にないから読み返すこともできない(今回入手して読み直してみた)。でも西行のこの二首からインスパイアやされて(年を取るとついつい分かんねえカタカナ用語を使ってみたくなるんだよね)空に出でればなどと表題にしたのだろうが、その時どんな心的な事情が介在したのかなんて、すっかり忘れてしまった。まあたいした理由もない。しかし、一度そんな風につけてみると、言葉というのは不思議なもので、しかも「歌」だから、制作中に絵をじっと見つめながらいつの間にか呪文のように唱えてしまったり、絵を画きながら、妙に制約されてしまう自分に気づいたりする。ダジャレじゃないが、そりゃねえよなどと横やりを入れられてしまうのだ。それに、ふとこんなことを連想しておかしくもなる。実際に筆を執って絵を描くときって筆の先の一画、その部分しか見えない。達人ならいざ知らず、どうしても全体が見渡せないのだ。これはすごく困ったことで、各細部を描きながらそれがどうなっているのか実はさっぱりかわからない。ちょうどナスカの地上絵を地面にへばりついでゴソゴソ作業している人にその絵が見えないのと同じように(いや、彼らには見えていた。そういう脳の構造があったと今は思う)。全体を見たければどんどん上空に昇るより他ない。絵によってはひょっとしたら成層圏まで登る羽目になる。それでやっと全体が眺められる。じっくり点検してあそこをもっと描き足さなくてはと思ったら、もちろんそこからさっと地上に舞い降りてくるのだ。この絵は100号で実際には5メータも下がれば全体は把握できるのだけれど、譬喩としては、空を行き来している。その空の通い路で、まるで地上(絵)に向かって雲の切れ間を飛んでいるように思えるときなど、ちょっと嬉しくなる。そうしてこう想うわずにはいられない。世にあらじとも思い立って、何処ともなく尋ねたあげく、最期に見えるのが花だったら、いいのにな(かわいいこと言ってますな)。

 この作品は2006年五月の画き始めの頃は「アンドロギュヌス」だった。私は現れる「汚斑」にどんどん描き重ねをしてゆくタイプだから二転三転して今は「空に出でれば」になっている。そんなわけで一年か二年後にはまったく違う表題を持つ、別の絵になっていることだってあり得る(そう、8年後に宙になっている。しかも甲骨文・・笑)
 やんぬるかな、空に出でれば・・・。

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 今、目の前に在る絵を直し、更にさらにあてどなく描き重ねてゆくのが私の制作のスタイルなので、この画面の下には地層のようにそれぞれの年代の絵が埋まっている。そのひとつが左の『空に出でれば』。2015年、当時その制作意図をここで書いているので、先ずそれを再録することにする。ちょっと茶々を入れて。

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空に出でれば F100号  ↑2015年5月  ↓2013年3月

第1部往相篇 壱の語り

以下、只今全面改定中  めんご

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